広島大学医学部ラグビー部(通称霞ラガーズ)は昭和47(1972)年に川崎尚教授(現広島大名誉教授)を中心に結成され,その歴史は本年でちょうど30 年を数える。その間,西医体においては優勝5回,準優勝2回,3位3回という輝かしい成績を残している。ここにその足跡をたどってみる
1:排卵から受精、誕生後の少年時代
霞ラガーズは,まだ40歳の若かりし川崎尚生化学第一講座教授と,その生化学の試験を白紙で提出し悠然と退場した当時広島大本部のラグビー部に所属してい た片山惠之(昭和51年卒,現OB会長)の運命的な出会いにより受精した。当時は同好会として誕生,48年7月にはクラブに昇格,その後部への昇格,県ラ グビー協会Dリーグへ加盟を果たす。この年初めて西医体にも参加するも,最初は冗談だったという参加姿勢のためか2回戦敗退に終わる。この頃クラブと言え ば,その愛称酔狂クラブの名にふさわしく,コンパ要員としての多くのメンバーをかかえるも試合の頭数をそろえるのに四苦八苦。何とか試合直前に雀荘から素 人をスカウトしてくるといった逸話も残っている。しかしOB諸氏のラグビーを愛する心,そして医学をたまにはやるといった姿勢の功あってか,49年,西医 体において初優勝,翌年準優勝と,突然第一期黄金時代を迎える。しかし,実力はあるにもかかわらず,人格形成期にミルクではなくビールを摂取し過ぎたせい か,部はその後西医体においては数年ふるわぬ状態が続く。
危機感の中で臨んだ昭和54年のシーズンは,元早稲田大学監督,全日本代表コーチを務められた栗本利見氏をコーチに迎え,早稲 田ばりの華麗なオープンプレーを目指した。たった4日しか夏休みをとられぬという猛練習ぶりでのぞんだ西医体は,ここまでの西医体でも因縁の深い熊本大学 を準決勝で破り,決勝でも大阪医大に43ー8と快勝,5年ぶりの優勝を果たした。この頃の戦力の充実ぶりを示す逸話として,四方裕夫(昭和56年卒)稲野 秀幸(同)の両名が,強豪三菱重工水島ラグビー部から就職の誘いを受けたという話も残っている。(しかも聞いた話では,四方は相当心揺れ動いたらしい。) この時代は霞ラガーをして第二期黄金時代と称されている。このときのメンバーの1人が現顧問の茶山一彰教授である。 10歳の誕生日を迎えた昭和57年前後,クラブは西医体での成績もさることながら,部員の人数でも再び厳しい時期を迎えた。しかし,OB諸氏はそんな中 でも力一杯楕円球を追いグラウンドを駆けた。地道な活動はやがてクラブを思春期へと導いていく。
2:思春期~二次性徴から成人式まで
昭和も60年代に入ると,多数,そして質の高い新入部員が入部,クラブは復活のきざしを見せつつあった。そして昭和61年,亀山泰(昭和63年卒)をキャ プテンとする第三期黄金時代を迎える。我が霞ラガーズは1シーズンを通じて25試合を戦い,敗れたのがマツダ,広大本部,徳山大のわずか3チームのみとい う好成績。しかもその頃のマツダといえば日本代表を含み,押しも押されぬ,スクラムも押されぬ強豪であった。しかしそのチームの「目の色が変わった」と伝 えられる戦いぶりは今も残る伝説である。広大本部とも本年は1勝1敗1分けで,自信をもって西医体に臨んだ。しかし,西医体では準決勝まではすべて完封す るも決勝では京都大に敗れてしまう。本年の記憶に残る出来事と言えば,亀山主将が関西学生代表候補に推薦されたということもあった。(その後骨折により辞 退。)
その後も部員わずか18人となったり,平均身長165cm,平均体重60kgというクラブとしての急激なダイエットがあったりと(背まで縮むとは),様 々な思春期特有の悩みがあった。しかし,人数は少なくとも,それなりの成績を残していたのはさすがという他はない。OBいわく,「なんとなくの勝ち癖」な のだそうだが,これも輝ける伝統の力だろうか。
3:青年期「お酒っておいしー。」時代
平成5年度のチームは西医体最強のBKを持つと言われたチームで、5度目の優勝へ向け自信満々で神鍋高原へ乗り込んだ。しかし、伏兵名古屋大学に1回戦で 抽選負けするという大波乱があった。その夜、竹野屋での打ち上げは大荒れ(特にキャプテン野間(平成7年卒)を中心に)であったらしい。当時の下級生には かなりつらい洗礼が行われたそうである。
次代の幹部連は、ここ数年の敗戦はFWの力不足によるものと総括。FWの改革に取り組む。いかんともしがたい体格差をまとまりで埋めるべく、FWは厳しい 練習をこなしていった。この年は「楽しい練習」もモットーの1つとして、雨が降ればバスケットボール、晴れていてもソフトボールなど、霞らしいのびのびと した雰囲気も重視された。これらの方針は、その年の西医体の結果には直接は現れなかったが、その秋の中国大会で久しぶりに広大本部を破るなど、少しずつ形 となってゆく。この頃から第五期黄金時代と呼んでも良いのではなかろうか。すぐに涙をこぼす泣き虫キャプテン宮崎(平成9年卒)の率いる霞ラガーズは1回 戦で102得点の西医体記録を樹立。2回戦では前年苦杯をなめた京都大を破り皆感涙にくれる。結果として銅メダルを獲得することとなった。
平成8年、卒業者も2人と少なかったこともあり、大きな戦力ダウンのなかったクラブの目指すものは優勝のみであった。そんな矢先、クラブを大きな不幸が襲 う。部員の藤岡宏治氏が20歳という若さでこの世を去ったのである。藤岡氏のご両親より通夜の席で「宏治はいい先輩や友達に恵まれて幸せでした」と聞き、 一同止めようもない涙を流した。あまりに突然、そしてショックな出来事であったため、立ち直るのには時間を要した。しかしやがて「人生の夢半ばで倒れた藤 岡のために」という思いで1つとなり、西医体をめざすことになる。長らくお世話になっている丸尾コーチ(元東芝府中)、寺岡コーチ(元法政大)の夏合宿で のしごきに耐え、神鍋での試合にのぞんだ。霞ラガーズは1回戦、2回戦と尻上がりに調子を上げ、決勝の相手ははここしばらく因縁の相手となっている京都大 であった。猛烈な暑さの中、両チームの死力がぶつかりあうゲームとなった。16-11とリードして迎えた終了間際の敵の猛攻に耐え抜き、ついに5度目の優 勝を手にすることとなった。
4:現在
平成七年の西医体~キャプテン宮崎正輝先生
平成7年の西医体
あと一歩に泣く…霞ラガーズ再び
第47回西医体(神鍋)三位
平成7年度主将宮崎正輝
最初に広島大学医学部霞ラグビー部、創部三十周年を心よりお祝申し上げます。また、ここ数年部員が少なく、チーム状態も苦しい中、部を存続させ復活へと導いてくれた後輩達、そして医学部を越えてチームをまとめて下さった歯学部の後輩達に心より感謝いたします。
私の入学した頃は、前々年西医体優勝、前年三位と、医学部の中でもかなりの強豪との噂もあり、私が広大を選んだ理由も西医体優勝校であるというものでし た。同級生にも、元熊本県代表SO大熊君(熊やん)、松山東でラグビーをし、あの新田高校からトライを奪った宮本君(宮本先生)、そして天性の格闘家浜石 君(ハマちゃん)と、僕を含め三人のラグビー経験者と1人の格闘家が入部。先輩達の熱い期待を受ける学年であった。
私が主将に任命された時は、レギュラー7名が引退、部員も19名とかなり厳しい状況でした。そんな中、僕らが1年生の時からのコーチである丸尾さん、寺 岡さんが今まで以上に熱心に指導して下さリました。丸尾さんはほとんど毎 回の練習に来て頂き、背広を着たままスクラムを組んだり、寺岡さんも合宿最後のランパスに参加してくれる等、口だけで指導するのではなく、きつい練習を一 緒にしてくれたことは本当に嬉しかったし、だからこそ信じてついて行けたのだと思います。
さて1年を振り返ってみる。秋。とにかくupandunderを身につけること、 そしてFWの意識改革に加え、モールでトライを取ること。今まで、本部や大型FWのチームにされてきた事を広大がやり返す事。最初は戸惑いもあったが、 コーチの指導のお陰で、徐々に全員の意識が変わっていった。中国医科大会は優勝。そして中国大会一回戦は西さん、宮本の活躍で広島経済大学に圧勝。二回 戦、広大本部。この日、SO熊やんのGKは絶好調。ほとんど角度のないところから次々とゴールを決めていく。しかし本部に2トライを奪われ、逆転される。 後半センターライン付近からCTB志々田のキックが相手陣深くへ。熊やんが拾い、downball(実はゴールラインを間違えたらしい)。そこに不祥、宮 崎現れ、ゴール下に飛び込み、トライ。キックも決まり逆転。しかし何と、この感動的なトライは、ビデオのテーブが丁度切れて、入れ替えている間に起こって しまい、志々田の変なキックで終わっている。その後、チームも勢いづき、本部相手にスクラムを押したり、モールを押したりと実力以上の力を発揮。FW第三 列の出足も鋭く、BKの気迫溢れるタツクルも目立っていた。結局13- 12で本部相手に勝利を収めた。この時、いつまでも泣いている僕の頭にポカリスエットをバケツごとかけられたのをいつまでも忘れない。決勝戦;広島工業 大。前半から目紛しい攻防。前半を3-5で折り返す。後半、何度も相手ゴール前まで行くがペナルティーで戻される。ゴール正面でのペナルティーあったが、 トライを取りにいき失敗。その後何度も自陣ゴール前まで攻め込まれるもBK3の活躍でなんとかトライを取らせず。尾上さん、ぞのさん、宮本のスーパーラン もあったがトライには結びつかず。そしてロスタイム、相手ゴール前でGKを貰う。距離はあったが熊やんなら大丈夫。誰もがそう思ったが、ボールはゴールを 外れ、その瞬間、ノーサイドの笛が鳴り響いた(3-5で惜敗)。後半の相手ゴール前での反則が悔やまれた。あと一歩、もう少し個々の力があればと思われた が、この短期間での成長は丸尾さんが想像した以上ではないかと思う。
年が明けて一大事。何と丸尾さんの岡山への転勤が急に決まった。自分達でやるしかない。春はとにかく走った。その後阪大と合同合宿&関西遠征。 巨大な阪大病院に、広大との大きな偏差値の差を感じてしまった。そして合宿中に東京でサリン事件発生。世紀末の不安を覚えた。関西遠征は、大型FWの関西 勢に怯むことなく全勝で終了。進級も無事に済み、新年度。西医体に向け、ますます練習は厳しさを増し、午前中はみんな授業に出てもほとんど寝ていた。昼休 みは解剖棟の前で、峠ちゃんと日高と一緒に首の筋トレ(あの時の日高の熱い雄叫びは…)。練習のない日もチャンプスに行くと浜ちゃん、大森、宮本などが鏡 を見ながらポーズをとり、自分の筋肉に見とれていた。あれ程ラグビーだけを考え、みんなでやってこれた時はないのではないかと今でも思う。そして夏合宿。 寺岡さんに''もうこれ以上走り込みをしなくても十分だ''と言われる程チームとして、出来上がっていた。けが人も回復し、自信満々で西医体に望んだ。
西医体1回戦;大分医大。丸尾さんより"100点差で勝て''との指令。前半最初からトライを取り続け、前半を50-0。観衆からどよめきが起こる程、 ボールを繋ぎ(特に西さんのプレーはうまかった)、ランニングラグビーを展開。後 半も手を緩めることなく、52点を奪い、102-0と記録的大勝を収めた。
2回戦;京大。まだ1度も勝ったことのない相手であり、前回は京大に負け2 回戦敗退している。タッチキックをチャージされ、トライを奪われたが、BK,FWとも優勢に戦い、そして後半、相手ゴール前のラックから熊やんが切れ込ん だところをヅメさんがフォロー、ゴールに飛び込みトライ。ゴールも決まり逆転(13-7)。京大も広大のディフェンスに攻めきれず、後半残りわずかでPK を加えただけであった。だが試合終了間際、相手ゴール前5mより京大BKが展開。ラインの裏に出たところを宮本が止めるも、すぐにボールが出され、展開。 もうダメか?と思われたところで、尾上(ガミオ)が2対1をタックルで止め、かろうじて勝利を収めた(13-10)。この日彼は初めて男になった。
3回戦神戸大学。前回の疲れからか、動きが鈍い。熊やんのGKで点差を重ねるが、取れるところでトライが取れず、結局兼川さんの独走トライ1つだけで終わった。(16-5)
準決勝;春に練習試合で惜敗した九大。この試合も熊やんのGKが冴える。相手陣内でのPK(ほとんどサイドライン上)をことごとく決める。両 CTB,FBが九大BKを封じ込めた。前半を9-5で折り返す。後半に入り、防戦が続く。 一瞬の隙をつかれ、PKから展開。あれよあれよと攻め込まれ、トライを決められた。その後も決定的なチャンスはなく9-10と1点差に泣いた。
3位決定戦。目標の金メダルは取れないが、最後の試合を楽しもう、と積極的 に攻めた。特に学2の活躍が光った。1年前はみんな試合にも出ていなかったが本当に成長したものだ。53-3と快勝。銅メダルをつけた尾上さん、ヅメさん が高々と胴揚げさ.れた。 こうして中国大会、西医体ともにあと一歩でしたが、本当に充実した1年間でした。かなり強引なキャプテンでしたが、サポートしてくれた同級生、先輩方、そ して熱血指導をして下さった丸尾實Rーチに本当に感謝致しています。 そして、泥臭くても、とにかくしつこく、最後まで勝利を諦めずに全力でプレーするという霞ラガーズの精神をいつまでも変わらずに後輩達に受け継いでいって ほしいと思います。
平成八年の西医体~キャプテン志々田将幸先生
平成8年の西医体
広島大学医学部ラグビー部、創部三十周年を心よりお祝い申し上げます。自分が入部し た年に二十周年パーティーがあったので、あれからもう10年も経ったのかと驚いております。キャプテンをさせていただいた年の西医体は生涯忘れられない思 い出です。今でも たまにその時のピデオを見て感動に涙することがあるのは自分だけではないと思います。創部30周年とは特に関係ないことでありますが、このときの試合につ いて書かせていた だくことにします。
一回戦はシード。
二回戦は福井医大戦、練習の成果出ず、他大学からは大量得点差を期待されながらも、 25-0(後半は5点のみ)。FWもBKもばらぱらで、今後どうなるのか副キャプテンの大森(1影のキャプテン)と心配したものでした。
三回戦は当然関西の雄、一一奈良県医大との対戦を予想し、一ヶ月以上も前より、関西出身の小出(なぜか現在も現役6年生で今年も西医体 出場、来年も彼の西医体での活躍を期待している。)が手に入れたビデオで研究していたにも関わらず、何の情報もない浜松医大との対戦となった。この日より 西医体に参加していただいた丸尾コーチのおかげで二回戦での不安はなくなり、11-0にて勝利(点差は一回戦より小さいが、安定感のある試合であった)。
準々決勝は九州No2の長崎大学、さすがに強豪校であり、かなり攻められもしたが、日高の味方ゴール前でのスーパープレイ(2次ボイントからフランカー の位置より飛び出し、クロスで入ってくる相手センター(このセンターは九州ではミニタンクと呼ばれ有名だったらしい)にタックルすると同時にボールを奪っ た)もあり、何とか勝利(13-7)。
準決勝は滋賀医大戦は強豪長崎大学に勝利した後だったため、怪我人も多く、苦戦を強いられたが出場した選手達の頑張り(特にスクラム ハーフ兼川さんが密集に巻き込まれているときの小松のボールさばき)でベストメンバーで戦っているのと変わらない安定感のある試合展開で勝利(9-5)。
決勝戦は自分が霞ラガーズに入部してから、西医体での成績が1勝2敗である京都大学との戦いとなった。この年の京都大学はFW,BKどこからでもトライ の狙える爆発的な攻撃力を持ったチームであった。この試合は自分たちにとって初めての40分ハーフの試合であり?潟jドしていたため條骼詩?A多くの練習 時間を費やしたアィフェンスが冴え、16-10にて勝利し、優勝した。
自分たちの力で、白ジャージの左腕に5本目のラインを刻むことが出来、当時のメンバー達は非常に感動したものであった。体育会系が敬 遠されがちな現在、体育会系でもさらに敬遁誉れるラグビー部に入部する新入生が減り、クラブ存亡の危機にあるとのことであるがラグビーはやってみるとやめ られない楽しさがあるスボーツ(今でもたまに現役生に遊んでもらっています。)であり、練習をすれぱするだけ強くなれるスポーツである。この楽しさを新入 生達に伝え、部員数を増やし、近い将来左腕に6本目のラインが刻まれることを強く期待しています。
最後に当時の幹部学年である平成10年卒業メンバーの紹介をさせていただき、締めくくらせていただきます。
大森俊行(No.7) 同級生で唯一のラグビー経験者。彼のラグビー理諭が同級生の間で浸透していた。影の キャプテンと皆に一目置かれながらも、車に乗るとすぐ迷子になってしまうお茶目なやつ。大好物はサロメ。(チームで購入するサロメの90%は彼の足に吸い 込まれていった。大森、自分のを買え。)
尾上亮(No.14) 入学時とてもスリムだった彼は、俊足WTBとして華やかにデビューを果たした が、一年時にかわいい彼女(現在新婚中)を見つけ、幸せ太りしてしまい、重量WTB(俊足とはとてもいえない)として、大活躍した。5年時の京都大学戦 (13-10)での終了間際の彼の全体重を浴びせたタックル(浴びせ倒し)なしには、この年の霞ラガーズの活躍はなかったであろう。
小沢信介(No.4) 小粒ぞろいの霞ラガーズFWにおいて、一人FW平均体重の増加に活躍した彼(現在 105?とのこと)はラインアウトの達人。低いジャンプと高いジャンプを使い分け(実際は低いジャノプのみ)、敵を翻弄した。普段と試合ではおとなしい が、飲み会では大暴れ (負傷者続出)。
小松弘明(No.9) 自称硬派の彼は、「女性のいるところ小松あり。」と言われ、私生活では微慶も硬派ぶりを見せないものの、試合中の特にディフェンスでは根性を見せてくれ た。体は小さいが、誰よりも低いタックルで、大男達をなぎ倒してきた彼の凄さは試合中にキラキラ輝きながら何度も宙を舞った彼の前歯が物語っている、しか し彼の凄さはやはり私生活である。無言でにこにこ座っているだけで、コンパで人気者になれる彼に嫉妬した者は多いだろう (ちなみに自分も真似してみたが怖いと言われた。)。小松、硬派の意味はもうわかったか?
志々田将幸(No.12) 個性派ぞろいの学年の中で唯一の平凡なまじめ人間。
峠本純哉(No.5) 霞ラガーズのムードメーカーである彼はどんな負け試合でも声の途切れることはなかっ た。強敵との試合で負けそうなときもかわいい娘がいないつまらないコンパ(彼的にはかわいい娘がいたのかも?)でもチームのムードメーカーとして十分に活 躍してくれた。 FWであった彼はトライのチャンスに恵まれなかったが、近い将来OB戦で初トライを挙げてくれることであろう。
日高敏和(No.2) 味方にしてこれほど頼もしい男はいないが、敵にしてこれほど恐ろしい男もいない。根っからのギャンブラーであり、ギャンブルでも試合でも弱い者にはとことん強い。その弱点を見つけ、徹底的に攻める彼にチームは何度となく救われた。ただ日高よ、麻雀では勘弁してくれ。
宮本礼人(No.15) 霞ラガーズの攻守の要、攻撃ではチームの得点の約半分をたたき出し、守備では霞の守護 神として、2対1までなら大抵は止めてくれた。自分たち不甲斐ない平成4年入学部員に神(教養の教授)が与えてくれた強力な仲間。その強い攻撃力と広い守 備範囲は試合ばかりでなく、女性関係でも十分に発揮されていた。
平成九年の西医体~キャプテン三木大樹先生
平成9年の西医体
1997年の西医体 平成12年卒 三木大樹
結果から言えば、2回戦敗退。神戸大学(この年は3位であったと記憶しています)に完敗でした。その試合では、どのプレーヤーも自分の力を出すことが出 来たと考えていますが、それだけでは埋まることのない力量の差を感じました。西医体は負けたら終わりの一発勝負であり、その試合ごとに最高の気合とプレー を出すことが大変重要です。しかし、よく言われるように、そこに行って何をするかではなく、そこに行くまでの一年間(もっと言えば、ラグビー部に入ってか ら自分がジャージを着て西医体のグラウンドに立っまで)に、何をしてきたかで勝敗は決します。その点から言えば、前年優勝という結果を受けて、同じチーム を自分が主将として率いてきた一年間は、相手チームのそれに及んでいなかったのでしょう。細かい点を挙げていけばきりがありませんが、っまりはそういうこ とであったのだろうと今は思います。また、久留米大学との一回戦はその内容はともかくとして勝つことが出来て嬉しかったです。同点で抽選となり、結果的に もう一試合チャンスを与えられたことはとてもラッキーでした。翌年以後も自分は他のプレーヤー(主に医学科保健学科の後輩達)のお陰で、二年間楽しくプ レーすることが出来ました。そして引退してからも2年間が過ぎようとしています。正直に言って、あの年のことに関しては、それ以後余り思い出すことをしな かったこともあり、個々のプレーに関する記憶は薄れつつありますが、やはり1997年の写真やビデオを見ていると、とても暑い西医体のグラウンド、同様に 熱かった胸の中が次々によみがえってきます。納得のいっている部分、遂げられなかった思い、それぞれが混在しており、まだ自分の中で十分には整理がついて いません。
以上、西医体について、現役時代同様に気持ちばかり先走り、まとまりのない長ったらしい話になりましたが、ご容赦ください。ここでは 述べませんが、思い出としては、自分が主将であった年だけでなく、入部した年から引退する年まで、西医体以外にも県リーグ、中国医科、セブンス、その他の 練習試合、普段の練習、遠征した時にみんなと色々楽しんだこと、などなど、すごくたくさんありました。お世話になった、川崎先生、丸尾コーチ、寺岡コー チ、諸先輩方、同級生、後輩達、マネージャーさん達、本当に有難うございました。大学でラグビーをやって本当に良かったと、今、思っています。最後に、こ れからの現役部員たちへ、「完全燃焼」して頑張れ!!
平成11年の西医体~キャプテン小出泰道先生
平成11年の西医体
平成14年卒 小出 泰道
今この文章を学4(7年日)として参加した2001年度の西医体を終えて書いているところである。参加すら出来なかった昨年を思えば、結果としては1回 戦負けとはいえ、人数集めに奔走してくれた医学部、歯学部の後輩たちには只々感謝するのみである。今後きっと新しいラグビー部の歴史を作ってくれるものと 固く信じている。ラグビー部創部30周年ということで、白分のキャプテン時代のことについて書くようにとのこと。長年のラグビー生活による頭部外傷の既往 と自らのいい型減な性格が幸いして、本当に楽しかったことしか覚えていない。思い出せる事のみ記す。前年の西医体での1回戦での敗戦は自分にとって本当に 悔しい思いで一杯であった。皆はよく練習もし、一生懸命であっただけに、副キャプテンとしての白分が情けない限りであった。このクラブに入った頃を思え ば、医学部に負けるということ自体が悔しいぐらいの(宮崎さんが線習試合で九大に負けた時"お前ら負けて悔しくないん?俺悔しいよ一!!"と泣いていたこ とは昨日のことのように覚えている)感じで、自分もそう思っていただけに、本当に情けなかった。富士屋のおばちゃんの『来年は頑張ってくださいよ」との言 葉を胸に神鍋を後にした。キャプテンを拝命して後、ある意味予想どうりというか、リーグ戦は敗戦の連続であった。
明るい講題といえば西医体で敗れた山口大学に中国医科大会の雪辱戦で勝利を収省ることが出来たことぐらいであった。この後冬 はひたすら筋トレに費やしたが、迎えた次年度も合宿をすれば怪我人、試合をすれば怪我人といった具合で、とうとう裏を前にして自分まで足の骨を折ってし まった。いろいろ考えた挙句、やはりもうこれは走って走って走りまくるしかないと思い、白分は走れもしないくせに部員には鬼の様な走り込みを科した。工大 学長をも引退され晴れて悠悠自適の暇人となられた川崎先生の「まだまだやな一」の声に尻を叩かれるように、それこそランパス1時間に始まリ、練習の最後ま で走りっぱなしの思い出しても気の毒なメニューであった。文句も言わず(内心はどうか知らないが)走りとおしてくれた部員、ことに先輩たちには本当に頭が 下がる。結果参加した西医体では何とか3年越しの勝利を収めることが出来た。この1勝を優勝した時より嬉しかったとは端や土井の引退の言葉であったが、白 分としても後輩に西医体で勝つ喜ぴを伝えられたとしたならばこれに勝る喜ぴはない。願わくは今後の後輩たちにもこの喜ぴをできるだけ多く経験して欲しいと 思う。その上の優勝という最上の喜ぴを再ぴ味わえる目のために皆で頑張ってくれるものと信じている
平成13年の西医体~キャプテン後藤景介先生
平成11年の西医体
平成14年卒 小出 泰道
今この文章を学4(7年日)として参加した2001年度の西医体を終えて書いているところである。参加すら出来なかった昨年を思えば、結果としては1回 戦負けとはいえ、人数集めに奔走してくれた医学部、歯学部の後輩たちには只々感謝するのみである。今後きっと新しいラグビー部の歴史を作ってくれるものと 固く信じている。ラグビー部創部30周年ということで、白分のキャプテン時代のことについて書くようにとのこと。長年のラグビー生活による頭部外傷の既往 と自らのいい型減な性格が幸いして、本当に楽しかったことしか覚えていない。思い出せる事のみ記す。前年の西医体での1回戦での敗戦は自分にとって本当に 悔しい思いで一杯であった。皆はよく練習もし、一生懸命であっただけに、副キャプテンとしての白分が情けない限りであった。このクラブに入った頃を思え ば、医学部に負けるということ自体が悔しいぐらいの(宮崎さんが線習試合で九大に負けた時"お前ら負けて悔しくないん?俺悔しいよ一!!"と泣いていたこ とは昨日のことのように覚えている)感じで、自分もそう思っていただけに、本当に情けなかった。富士屋のおばちゃんの『来年は頑張ってくださいよ」との言 葉を胸に神鍋を後にした。キャプテンを拝命して後、ある意味予想どうりというか、リーグ戦は敗戦の連続であった。
明るい講題といえば西医体で敗れた山口大学に中国医科大会の雪辱戦で勝利を収省ることが出来たことぐらいであった。この後冬 はひたすら筋トレに費やしたが、迎えた次年度も合宿をすれば怪我人、試合をすれば怪我人といった具合で、とうとう裏を前にして自分まで足の骨を折ってし まった。いろいろ考えた挙句、やはりもうこれは走って走って走りまくるしかないと思い、白分は走れもしないくせに部員には鬼の様な走り込みを科した。工大 学長をも引退され晴れて悠悠自適の暇人となられた川崎先生の「まだまだやな一」の声に尻を叩かれるように、それこそランパス1時間に始まリ、練習の最後ま で走りっぱなしの思い出しても気の毒なメニューであった。文句も言わず(内心はどうか知らないが)走りとおしてくれた部員、ことに先輩たちには本当に頭が 下がる。結果参加した西医体では何とか3年越しの勝利を収めることが出来た。この1勝を優勝した時より嬉しかったとは端や土井の引退の言葉であったが、白 分としても後輩に西医体で勝つ喜ぴを伝えられたとしたならばこれに勝る喜ぴはない。願わくは今後の後輩たちにもこの喜ぴをできるだけ多く経験して欲しいと 思う。その上の優勝という最上の喜ぴを再ぴ味わえる目のために皆で頑張ってくれるものと信じている
歯学部
1980年 綾戸成史先生(昭和61年卒)らを中心に創部。
~1983 キャプテン=綾戸成史先生
同好会として活動。顧問に杉中教授が就任。
1984 キャプテン=守光裕先生(昭和61年卒)
クラブに昇格。県リーグ戦に参加するが結果は全敗。
1985 キャプテン=松本浩一先生(昭和62年卒)
三石に初勝利。デンタルに初参加。
1986 キャプテン=冨田浩之先生(昭和63年卒)
リーグ戦2勝2敗。
1987 キャプテン=河井敬久先生(平成元年卒)
河井先生は1年生の時安芸クラブのフッカーを殴って退場させた経験を持つ。
1988 キャプテン=新井智先生(平成2年卒)
Aリーグへ昇格。
1989 キャプテン=山本泉先生(平成3年卒)
Aリーグで全敗。
1990 キャプテン=大谷裕幸先生(平成4年卒)
Aリーグ全敗。徳島大との交流戦が始まる。(~98)
1991 キャプテン=平尾清司先生(平成5年卒)
デンタルへ出場。Bリーグへ降格。
1992 キャプテン=畑崎清孝先生(平成6年卒)
Bリーグ優勝。
1993 キャプテン=西田哲也先生(平成8年卒)
Aリーグ全敗。
1994 キャプテン=松本祥忠先生(平成9年卒)
Aリーグ昇格ならず。
1995 キャプテン=秋吉美智彦先生(平成9年卒)
Aリーグ昇格ならず。
1996 キャプテン=林靖一郎先生(平成9年卒)
Aリーグ昇格ならず。(Bリーグ2位)
1997 キャプテン=木谷憲典先生(平成10年卒)
医学部に創部以来初勝利。Bリーグ2位。
1998 キャプテン=山下剛史先生(平成12年卒)
Bリーグ優勝するも県全体のラグビーチーム数減少によるリーグ再編成のあおりを受けて昇格できず。
杉中教授名誉顧問に就任。
1999 キャプテン=児玉昌樹(平成7年入学)
医学部と合併。登録名を霞ラガーズとしBリーグへ出場。結果は4勝1敗で2位。
菅井教授(当時助教授)が顧問に就任。
2000 キャプテン=屋島浩記(平成8年入学)
島根医科大学と交流戦を行う。Bリーグ4勝1敗で2位。
1:排卵から受精、誕生後の少年時代
霞ラガーズは,まだ40歳の若かりし川崎尚生化学第一講座教授と,その生化学の試験を白紙で提出し悠然と退場した当時広島大本部のラグビー部に所属してい た片山惠之(昭和51年卒,現OB会長)の運命的な出会いにより受精した。当時は同好会として誕生,48年7月にはクラブに昇格,その後部への昇格,県ラ グビー協会Dリーグへ加盟を果たす。この年初めて西医体にも参加するも,最初は冗談だったという参加姿勢のためか2回戦敗退に終わる。この頃クラブと言え ば,その愛称酔狂クラブの名にふさわしく,コンパ要員としての多くのメンバーをかかえるも試合の頭数をそろえるのに四苦八苦。何とか試合直前に雀荘から素 人をスカウトしてくるといった逸話も残っている。しかしOB諸氏のラグビーを愛する心,そして医学をたまにはやるといった姿勢の功あってか,49年,西医 体において初優勝,翌年準優勝と,突然第一期黄金時代を迎える。しかし,実力はあるにもかかわらず,人格形成期にミルクではなくビールを摂取し過ぎたせい か,部はその後西医体においては数年ふるわぬ状態が続く。
危機感の中で臨んだ昭和54年のシーズンは,元早稲田大学監督,全日本代表コーチを務められた栗本利見氏をコーチに迎え,早稲 田ばりの華麗なオープンプレーを目指した。たった4日しか夏休みをとられぬという猛練習ぶりでのぞんだ西医体は,ここまでの西医体でも因縁の深い熊本大学 を準決勝で破り,決勝でも大阪医大に43ー8と快勝,5年ぶりの優勝を果たした。この頃の戦力の充実ぶりを示す逸話として,四方裕夫(昭和56年卒)稲野 秀幸(同)の両名が,強豪三菱重工水島ラグビー部から就職の誘いを受けたという話も残っている。(しかも聞いた話では,四方は相当心揺れ動いたらしい。) この時代は霞ラガーをして第二期黄金時代と称されている。このときのメンバーの1人が現顧問の茶山一彰教授である。 10歳の誕生日を迎えた昭和57年前後,クラブは西医体での成績もさることながら,部員の人数でも再び厳しい時期を迎えた。しかし,OB諸氏はそんな中 でも力一杯楕円球を追いグラウンドを駆けた。地道な活動はやがてクラブを思春期へと導いていく。
2:思春期~二次性徴から成人式まで
昭和も60年代に入ると,多数,そして質の高い新入部員が入部,クラブは復活のきざしを見せつつあった。そして昭和61年,亀山泰(昭和63年卒)をキャ プテンとする第三期黄金時代を迎える。我が霞ラガーズは1シーズンを通じて25試合を戦い,敗れたのがマツダ,広大本部,徳山大のわずか3チームのみとい う好成績。しかもその頃のマツダといえば日本代表を含み,押しも押されぬ,スクラムも押されぬ強豪であった。しかしそのチームの「目の色が変わった」と伝 えられる戦いぶりは今も残る伝説である。広大本部とも本年は1勝1敗1分けで,自信をもって西医体に臨んだ。しかし,西医体では準決勝まではすべて完封す るも決勝では京都大に敗れてしまう。本年の記憶に残る出来事と言えば,亀山主将が関西学生代表候補に推薦されたということもあった。(その後骨折により辞 退。)
その後も部員わずか18人となったり,平均身長165cm,平均体重60kgというクラブとしての急激なダイエットがあったりと(背まで縮むとは),様 々な思春期特有の悩みがあった。しかし,人数は少なくとも,それなりの成績を残していたのはさすがという他はない。OBいわく,「なんとなくの勝ち癖」な のだそうだが,これも輝ける伝統の力だろうか。
3:青年期「お酒っておいしー。」時代
平成5年度のチームは西医体最強のBKを持つと言われたチームで、5度目の優勝へ向け自信満々で神鍋高原へ乗り込んだ。しかし、伏兵名古屋大学に1回戦で 抽選負けするという大波乱があった。その夜、竹野屋での打ち上げは大荒れ(特にキャプテン野間(平成7年卒)を中心に)であったらしい。当時の下級生には かなりつらい洗礼が行われたそうである。
次代の幹部連は、ここ数年の敗戦はFWの力不足によるものと総括。FWの改革に取り組む。いかんともしがたい体格差をまとまりで埋めるべく、FWは厳しい 練習をこなしていった。この年は「楽しい練習」もモットーの1つとして、雨が降ればバスケットボール、晴れていてもソフトボールなど、霞らしいのびのびと した雰囲気も重視された。これらの方針は、その年の西医体の結果には直接は現れなかったが、その秋の中国大会で久しぶりに広大本部を破るなど、少しずつ形 となってゆく。この頃から第五期黄金時代と呼んでも良いのではなかろうか。すぐに涙をこぼす泣き虫キャプテン宮崎(平成9年卒)の率いる霞ラガーズは1回 戦で102得点の西医体記録を樹立。2回戦では前年苦杯をなめた京都大を破り皆感涙にくれる。結果として銅メダルを獲得することとなった。
平成8年、卒業者も2人と少なかったこともあり、大きな戦力ダウンのなかったクラブの目指すものは優勝のみであった。そんな矢先、クラブを大きな不幸が襲 う。部員の藤岡宏治氏が20歳という若さでこの世を去ったのである。藤岡氏のご両親より通夜の席で「宏治はいい先輩や友達に恵まれて幸せでした」と聞き、 一同止めようもない涙を流した。あまりに突然、そしてショックな出来事であったため、立ち直るのには時間を要した。しかしやがて「人生の夢半ばで倒れた藤 岡のために」という思いで1つとなり、西医体をめざすことになる。長らくお世話になっている丸尾コーチ(元東芝府中)、寺岡コーチ(元法政大)の夏合宿で のしごきに耐え、神鍋での試合にのぞんだ。霞ラガーズは1回戦、2回戦と尻上がりに調子を上げ、決勝の相手ははここしばらく因縁の相手となっている京都大 であった。猛烈な暑さの中、両チームの死力がぶつかりあうゲームとなった。16-11とリードして迎えた終了間際の敵の猛攻に耐え抜き、ついに5度目の優 勝を手にすることとなった。
4:現在
平成七年の西医体~キャプテン宮崎正輝先生
平成7年の西医体
あと一歩に泣く…霞ラガーズ再び
第47回西医体(神鍋)三位
平成7年度主将宮崎正輝
最初に広島大学医学部霞ラグビー部、創部三十周年を心よりお祝申し上げます。また、ここ数年部員が少なく、チーム状態も苦しい中、部を存続させ復活へと導いてくれた後輩達、そして医学部を越えてチームをまとめて下さった歯学部の後輩達に心より感謝いたします。
私の入学した頃は、前々年西医体優勝、前年三位と、医学部の中でもかなりの強豪との噂もあり、私が広大を選んだ理由も西医体優勝校であるというものでし た。同級生にも、元熊本県代表SO大熊君(熊やん)、松山東でラグビーをし、あの新田高校からトライを奪った宮本君(宮本先生)、そして天性の格闘家浜石 君(ハマちゃん)と、僕を含め三人のラグビー経験者と1人の格闘家が入部。先輩達の熱い期待を受ける学年であった。
私が主将に任命された時は、レギュラー7名が引退、部員も19名とかなり厳しい状況でした。そんな中、僕らが1年生の時からのコーチである丸尾さん、寺 岡さんが今まで以上に熱心に指導して下さリました。丸尾さんはほとんど毎 回の練習に来て頂き、背広を着たままスクラムを組んだり、寺岡さんも合宿最後のランパスに参加してくれる等、口だけで指導するのではなく、きつい練習を一 緒にしてくれたことは本当に嬉しかったし、だからこそ信じてついて行けたのだと思います。
さて1年を振り返ってみる。秋。とにかくupandunderを身につけること、 そしてFWの意識改革に加え、モールでトライを取ること。今まで、本部や大型FWのチームにされてきた事を広大がやり返す事。最初は戸惑いもあったが、 コーチの指導のお陰で、徐々に全員の意識が変わっていった。中国医科大会は優勝。そして中国大会一回戦は西さん、宮本の活躍で広島経済大学に圧勝。二回 戦、広大本部。この日、SO熊やんのGKは絶好調。ほとんど角度のないところから次々とゴールを決めていく。しかし本部に2トライを奪われ、逆転される。 後半センターライン付近からCTB志々田のキックが相手陣深くへ。熊やんが拾い、downball(実はゴールラインを間違えたらしい)。そこに不祥、宮 崎現れ、ゴール下に飛び込み、トライ。キックも決まり逆転。しかし何と、この感動的なトライは、ビデオのテーブが丁度切れて、入れ替えている間に起こって しまい、志々田の変なキックで終わっている。その後、チームも勢いづき、本部相手にスクラムを押したり、モールを押したりと実力以上の力を発揮。FW第三 列の出足も鋭く、BKの気迫溢れるタツクルも目立っていた。結局13- 12で本部相手に勝利を収めた。この時、いつまでも泣いている僕の頭にポカリスエットをバケツごとかけられたのをいつまでも忘れない。決勝戦;広島工業 大。前半から目紛しい攻防。前半を3-5で折り返す。後半、何度も相手ゴール前まで行くがペナルティーで戻される。ゴール正面でのペナルティーあったが、 トライを取りにいき失敗。その後何度も自陣ゴール前まで攻め込まれるもBK3の活躍でなんとかトライを取らせず。尾上さん、ぞのさん、宮本のスーパーラン もあったがトライには結びつかず。そしてロスタイム、相手ゴール前でGKを貰う。距離はあったが熊やんなら大丈夫。誰もがそう思ったが、ボールはゴールを 外れ、その瞬間、ノーサイドの笛が鳴り響いた(3-5で惜敗)。後半の相手ゴール前での反則が悔やまれた。あと一歩、もう少し個々の力があればと思われた が、この短期間での成長は丸尾さんが想像した以上ではないかと思う。
年が明けて一大事。何と丸尾さんの岡山への転勤が急に決まった。自分達でやるしかない。春はとにかく走った。その後阪大と合同合宿&関西遠征。 巨大な阪大病院に、広大との大きな偏差値の差を感じてしまった。そして合宿中に東京でサリン事件発生。世紀末の不安を覚えた。関西遠征は、大型FWの関西 勢に怯むことなく全勝で終了。進級も無事に済み、新年度。西医体に向け、ますます練習は厳しさを増し、午前中はみんな授業に出てもほとんど寝ていた。昼休 みは解剖棟の前で、峠ちゃんと日高と一緒に首の筋トレ(あの時の日高の熱い雄叫びは…)。練習のない日もチャンプスに行くと浜ちゃん、大森、宮本などが鏡 を見ながらポーズをとり、自分の筋肉に見とれていた。あれ程ラグビーだけを考え、みんなでやってこれた時はないのではないかと今でも思う。そして夏合宿。 寺岡さんに''もうこれ以上走り込みをしなくても十分だ''と言われる程チームとして、出来上がっていた。けが人も回復し、自信満々で西医体に望んだ。
西医体1回戦;大分医大。丸尾さんより"100点差で勝て''との指令。前半最初からトライを取り続け、前半を50-0。観衆からどよめきが起こる程、 ボールを繋ぎ(特に西さんのプレーはうまかった)、ランニングラグビーを展開。後 半も手を緩めることなく、52点を奪い、102-0と記録的大勝を収めた。
2回戦;京大。まだ1度も勝ったことのない相手であり、前回は京大に負け2 回戦敗退している。タッチキックをチャージされ、トライを奪われたが、BK,FWとも優勢に戦い、そして後半、相手ゴール前のラックから熊やんが切れ込ん だところをヅメさんがフォロー、ゴールに飛び込みトライ。ゴールも決まり逆転(13-7)。京大も広大のディフェンスに攻めきれず、後半残りわずかでPK を加えただけであった。だが試合終了間際、相手ゴール前5mより京大BKが展開。ラインの裏に出たところを宮本が止めるも、すぐにボールが出され、展開。 もうダメか?と思われたところで、尾上(ガミオ)が2対1をタックルで止め、かろうじて勝利を収めた(13-10)。この日彼は初めて男になった。
3回戦神戸大学。前回の疲れからか、動きが鈍い。熊やんのGKで点差を重ねるが、取れるところでトライが取れず、結局兼川さんの独走トライ1つだけで終わった。(16-5)
準決勝;春に練習試合で惜敗した九大。この試合も熊やんのGKが冴える。相手陣内でのPK(ほとんどサイドライン上)をことごとく決める。両 CTB,FBが九大BKを封じ込めた。前半を9-5で折り返す。後半に入り、防戦が続く。 一瞬の隙をつかれ、PKから展開。あれよあれよと攻め込まれ、トライを決められた。その後も決定的なチャンスはなく9-10と1点差に泣いた。
3位決定戦。目標の金メダルは取れないが、最後の試合を楽しもう、と積極的 に攻めた。特に学2の活躍が光った。1年前はみんな試合にも出ていなかったが本当に成長したものだ。53-3と快勝。銅メダルをつけた尾上さん、ヅメさん が高々と胴揚げさ.れた。 こうして中国大会、西医体ともにあと一歩でしたが、本当に充実した1年間でした。かなり強引なキャプテンでしたが、サポートしてくれた同級生、先輩方、そ して熱血指導をして下さった丸尾實Rーチに本当に感謝致しています。 そして、泥臭くても、とにかくしつこく、最後まで勝利を諦めずに全力でプレーするという霞ラガーズの精神をいつまでも変わらずに後輩達に受け継いでいって ほしいと思います。
平成八年の西医体~キャプテン志々田将幸先生
平成8年の西医体
広島大学医学部ラグビー部、創部三十周年を心よりお祝い申し上げます。自分が入部し た年に二十周年パーティーがあったので、あれからもう10年も経ったのかと驚いております。キャプテンをさせていただいた年の西医体は生涯忘れられない思 い出です。今でも たまにその時のピデオを見て感動に涙することがあるのは自分だけではないと思います。創部30周年とは特に関係ないことでありますが、このときの試合につ いて書かせていた だくことにします。
一回戦はシード。
二回戦は福井医大戦、練習の成果出ず、他大学からは大量得点差を期待されながらも、 25-0(後半は5点のみ)。FWもBKもばらぱらで、今後どうなるのか副キャプテンの大森(1影のキャプテン)と心配したものでした。
三回戦は当然関西の雄、一一奈良県医大との対戦を予想し、一ヶ月以上も前より、関西出身の小出(なぜか現在も現役6年生で今年も西医体 出場、来年も彼の西医体での活躍を期待している。)が手に入れたビデオで研究していたにも関わらず、何の情報もない浜松医大との対戦となった。この日より 西医体に参加していただいた丸尾コーチのおかげで二回戦での不安はなくなり、11-0にて勝利(点差は一回戦より小さいが、安定感のある試合であった)。
準々決勝は九州No2の長崎大学、さすがに強豪校であり、かなり攻められもしたが、日高の味方ゴール前でのスーパープレイ(2次ボイントからフランカー の位置より飛び出し、クロスで入ってくる相手センター(このセンターは九州ではミニタンクと呼ばれ有名だったらしい)にタックルすると同時にボールを奪っ た)もあり、何とか勝利(13-7)。
準決勝は滋賀医大戦は強豪長崎大学に勝利した後だったため、怪我人も多く、苦戦を強いられたが出場した選手達の頑張り(特にスクラム ハーフ兼川さんが密集に巻き込まれているときの小松のボールさばき)でベストメンバーで戦っているのと変わらない安定感のある試合展開で勝利(9-5)。
決勝戦は自分が霞ラガーズに入部してから、西医体での成績が1勝2敗である京都大学との戦いとなった。この年の京都大学はFW,BKどこからでもトライ の狙える爆発的な攻撃力を持ったチームであった。この試合は自分たちにとって初めての40分ハーフの試合であり?潟jドしていたため條骼詩?A多くの練習 時間を費やしたアィフェンスが冴え、16-10にて勝利し、優勝した。
自分たちの力で、白ジャージの左腕に5本目のラインを刻むことが出来、当時のメンバー達は非常に感動したものであった。体育会系が敬 遠されがちな現在、体育会系でもさらに敬遁誉れるラグビー部に入部する新入生が減り、クラブ存亡の危機にあるとのことであるがラグビーはやってみるとやめ られない楽しさがあるスボーツ(今でもたまに現役生に遊んでもらっています。)であり、練習をすれぱするだけ強くなれるスポーツである。この楽しさを新入 生達に伝え、部員数を増やし、近い将来左腕に6本目のラインが刻まれることを強く期待しています。
最後に当時の幹部学年である平成10年卒業メンバーの紹介をさせていただき、締めくくらせていただきます。
大森俊行(No.7) 同級生で唯一のラグビー経験者。彼のラグビー理諭が同級生の間で浸透していた。影の キャプテンと皆に一目置かれながらも、車に乗るとすぐ迷子になってしまうお茶目なやつ。大好物はサロメ。(チームで購入するサロメの90%は彼の足に吸い 込まれていった。大森、自分のを買え。)
尾上亮(No.14) 入学時とてもスリムだった彼は、俊足WTBとして華やかにデビューを果たした が、一年時にかわいい彼女(現在新婚中)を見つけ、幸せ太りしてしまい、重量WTB(俊足とはとてもいえない)として、大活躍した。5年時の京都大学戦 (13-10)での終了間際の彼の全体重を浴びせたタックル(浴びせ倒し)なしには、この年の霞ラガーズの活躍はなかったであろう。
小沢信介(No.4) 小粒ぞろいの霞ラガーズFWにおいて、一人FW平均体重の増加に活躍した彼(現在 105?とのこと)はラインアウトの達人。低いジャンプと高いジャンプを使い分け(実際は低いジャノプのみ)、敵を翻弄した。普段と試合ではおとなしい が、飲み会では大暴れ (負傷者続出)。
小松弘明(No.9) 自称硬派の彼は、「女性のいるところ小松あり。」と言われ、私生活では微慶も硬派ぶりを見せないものの、試合中の特にディフェンスでは根性を見せてくれ た。体は小さいが、誰よりも低いタックルで、大男達をなぎ倒してきた彼の凄さは試合中にキラキラ輝きながら何度も宙を舞った彼の前歯が物語っている、しか し彼の凄さはやはり私生活である。無言でにこにこ座っているだけで、コンパで人気者になれる彼に嫉妬した者は多いだろう (ちなみに自分も真似してみたが怖いと言われた。)。小松、硬派の意味はもうわかったか?
志々田将幸(No.12) 個性派ぞろいの学年の中で唯一の平凡なまじめ人間。
峠本純哉(No.5) 霞ラガーズのムードメーカーである彼はどんな負け試合でも声の途切れることはなかっ た。強敵との試合で負けそうなときもかわいい娘がいないつまらないコンパ(彼的にはかわいい娘がいたのかも?)でもチームのムードメーカーとして十分に活 躍してくれた。 FWであった彼はトライのチャンスに恵まれなかったが、近い将来OB戦で初トライを挙げてくれることであろう。
日高敏和(No.2) 味方にしてこれほど頼もしい男はいないが、敵にしてこれほど恐ろしい男もいない。根っからのギャンブラーであり、ギャンブルでも試合でも弱い者にはとことん強い。その弱点を見つけ、徹底的に攻める彼にチームは何度となく救われた。ただ日高よ、麻雀では勘弁してくれ。
宮本礼人(No.15) 霞ラガーズの攻守の要、攻撃ではチームの得点の約半分をたたき出し、守備では霞の守護 神として、2対1までなら大抵は止めてくれた。自分たち不甲斐ない平成4年入学部員に神(教養の教授)が与えてくれた強力な仲間。その強い攻撃力と広い守 備範囲は試合ばかりでなく、女性関係でも十分に発揮されていた。
平成九年の西医体~キャプテン三木大樹先生
平成9年の西医体
1997年の西医体 平成12年卒 三木大樹
結果から言えば、2回戦敗退。神戸大学(この年は3位であったと記憶しています)に完敗でした。その試合では、どのプレーヤーも自分の力を出すことが出 来たと考えていますが、それだけでは埋まることのない力量の差を感じました。西医体は負けたら終わりの一発勝負であり、その試合ごとに最高の気合とプレー を出すことが大変重要です。しかし、よく言われるように、そこに行って何をするかではなく、そこに行くまでの一年間(もっと言えば、ラグビー部に入ってか ら自分がジャージを着て西医体のグラウンドに立っまで)に、何をしてきたかで勝敗は決します。その点から言えば、前年優勝という結果を受けて、同じチーム を自分が主将として率いてきた一年間は、相手チームのそれに及んでいなかったのでしょう。細かい点を挙げていけばきりがありませんが、っまりはそういうこ とであったのだろうと今は思います。また、久留米大学との一回戦はその内容はともかくとして勝つことが出来て嬉しかったです。同点で抽選となり、結果的に もう一試合チャンスを与えられたことはとてもラッキーでした。翌年以後も自分は他のプレーヤー(主に医学科保健学科の後輩達)のお陰で、二年間楽しくプ レーすることが出来ました。そして引退してからも2年間が過ぎようとしています。正直に言って、あの年のことに関しては、それ以後余り思い出すことをしな かったこともあり、個々のプレーに関する記憶は薄れつつありますが、やはり1997年の写真やビデオを見ていると、とても暑い西医体のグラウンド、同様に 熱かった胸の中が次々によみがえってきます。納得のいっている部分、遂げられなかった思い、それぞれが混在しており、まだ自分の中で十分には整理がついて いません。
以上、西医体について、現役時代同様に気持ちばかり先走り、まとまりのない長ったらしい話になりましたが、ご容赦ください。ここでは 述べませんが、思い出としては、自分が主将であった年だけでなく、入部した年から引退する年まで、西医体以外にも県リーグ、中国医科、セブンス、その他の 練習試合、普段の練習、遠征した時にみんなと色々楽しんだこと、などなど、すごくたくさんありました。お世話になった、川崎先生、丸尾コーチ、寺岡コー チ、諸先輩方、同級生、後輩達、マネージャーさん達、本当に有難うございました。大学でラグビーをやって本当に良かったと、今、思っています。最後に、こ れからの現役部員たちへ、「完全燃焼」して頑張れ!!
平成11年の西医体~キャプテン小出泰道先生
平成11年の西医体
平成14年卒 小出 泰道
今この文章を学4(7年日)として参加した2001年度の西医体を終えて書いているところである。参加すら出来なかった昨年を思えば、結果としては1回 戦負けとはいえ、人数集めに奔走してくれた医学部、歯学部の後輩たちには只々感謝するのみである。今後きっと新しいラグビー部の歴史を作ってくれるものと 固く信じている。ラグビー部創部30周年ということで、白分のキャプテン時代のことについて書くようにとのこと。長年のラグビー生活による頭部外傷の既往 と自らのいい型減な性格が幸いして、本当に楽しかったことしか覚えていない。思い出せる事のみ記す。前年の西医体での1回戦での敗戦は自分にとって本当に 悔しい思いで一杯であった。皆はよく練習もし、一生懸命であっただけに、副キャプテンとしての白分が情けない限りであった。このクラブに入った頃を思え ば、医学部に負けるということ自体が悔しいぐらいの(宮崎さんが線習試合で九大に負けた時"お前ら負けて悔しくないん?俺悔しいよ一!!"と泣いていたこ とは昨日のことのように覚えている)感じで、自分もそう思っていただけに、本当に情けなかった。富士屋のおばちゃんの『来年は頑張ってくださいよ」との言 葉を胸に神鍋を後にした。キャプテンを拝命して後、ある意味予想どうりというか、リーグ戦は敗戦の連続であった。
明るい講題といえば西医体で敗れた山口大学に中国医科大会の雪辱戦で勝利を収省ることが出来たことぐらいであった。この後冬 はひたすら筋トレに費やしたが、迎えた次年度も合宿をすれば怪我人、試合をすれば怪我人といった具合で、とうとう裏を前にして自分まで足の骨を折ってし まった。いろいろ考えた挙句、やはりもうこれは走って走って走りまくるしかないと思い、白分は走れもしないくせに部員には鬼の様な走り込みを科した。工大 学長をも引退され晴れて悠悠自適の暇人となられた川崎先生の「まだまだやな一」の声に尻を叩かれるように、それこそランパス1時間に始まリ、練習の最後ま で走りっぱなしの思い出しても気の毒なメニューであった。文句も言わず(内心はどうか知らないが)走りとおしてくれた部員、ことに先輩たちには本当に頭が 下がる。結果参加した西医体では何とか3年越しの勝利を収めることが出来た。この1勝を優勝した時より嬉しかったとは端や土井の引退の言葉であったが、白 分としても後輩に西医体で勝つ喜ぴを伝えられたとしたならばこれに勝る喜ぴはない。願わくは今後の後輩たちにもこの喜ぴをできるだけ多く経験して欲しいと 思う。その上の優勝という最上の喜ぴを再ぴ味わえる目のために皆で頑張ってくれるものと信じている
平成13年の西医体~キャプテン後藤景介先生
平成11年の西医体
平成14年卒 小出 泰道
今この文章を学4(7年日)として参加した2001年度の西医体を終えて書いているところである。参加すら出来なかった昨年を思えば、結果としては1回 戦負けとはいえ、人数集めに奔走してくれた医学部、歯学部の後輩たちには只々感謝するのみである。今後きっと新しいラグビー部の歴史を作ってくれるものと 固く信じている。ラグビー部創部30周年ということで、白分のキャプテン時代のことについて書くようにとのこと。長年のラグビー生活による頭部外傷の既往 と自らのいい型減な性格が幸いして、本当に楽しかったことしか覚えていない。思い出せる事のみ記す。前年の西医体での1回戦での敗戦は自分にとって本当に 悔しい思いで一杯であった。皆はよく練習もし、一生懸命であっただけに、副キャプテンとしての白分が情けない限りであった。このクラブに入った頃を思え ば、医学部に負けるということ自体が悔しいぐらいの(宮崎さんが線習試合で九大に負けた時"お前ら負けて悔しくないん?俺悔しいよ一!!"と泣いていたこ とは昨日のことのように覚えている)感じで、自分もそう思っていただけに、本当に情けなかった。富士屋のおばちゃんの『来年は頑張ってくださいよ」との言 葉を胸に神鍋を後にした。キャプテンを拝命して後、ある意味予想どうりというか、リーグ戦は敗戦の連続であった。
明るい講題といえば西医体で敗れた山口大学に中国医科大会の雪辱戦で勝利を収省ることが出来たことぐらいであった。この後冬 はひたすら筋トレに費やしたが、迎えた次年度も合宿をすれば怪我人、試合をすれば怪我人といった具合で、とうとう裏を前にして自分まで足の骨を折ってし まった。いろいろ考えた挙句、やはりもうこれは走って走って走りまくるしかないと思い、白分は走れもしないくせに部員には鬼の様な走り込みを科した。工大 学長をも引退され晴れて悠悠自適の暇人となられた川崎先生の「まだまだやな一」の声に尻を叩かれるように、それこそランパス1時間に始まリ、練習の最後ま で走りっぱなしの思い出しても気の毒なメニューであった。文句も言わず(内心はどうか知らないが)走りとおしてくれた部員、ことに先輩たちには本当に頭が 下がる。結果参加した西医体では何とか3年越しの勝利を収めることが出来た。この1勝を優勝した時より嬉しかったとは端や土井の引退の言葉であったが、白 分としても後輩に西医体で勝つ喜ぴを伝えられたとしたならばこれに勝る喜ぴはない。願わくは今後の後輩たちにもこの喜ぴをできるだけ多く経験して欲しいと 思う。その上の優勝という最上の喜ぴを再ぴ味わえる目のために皆で頑張ってくれるものと信じている
歯学部
1980年 綾戸成史先生(昭和61年卒)らを中心に創部。
~1983 キャプテン=綾戸成史先生
同好会として活動。顧問に杉中教授が就任。
1984 キャプテン=守光裕先生(昭和61年卒)
クラブに昇格。県リーグ戦に参加するが結果は全敗。
1985 キャプテン=松本浩一先生(昭和62年卒)
三石に初勝利。デンタルに初参加。
1986 キャプテン=冨田浩之先生(昭和63年卒)
リーグ戦2勝2敗。
1987 キャプテン=河井敬久先生(平成元年卒)
河井先生は1年生の時安芸クラブのフッカーを殴って退場させた経験を持つ。
1988 キャプテン=新井智先生(平成2年卒)
Aリーグへ昇格。
1989 キャプテン=山本泉先生(平成3年卒)
Aリーグで全敗。
1990 キャプテン=大谷裕幸先生(平成4年卒)
Aリーグ全敗。徳島大との交流戦が始まる。(~98)
1991 キャプテン=平尾清司先生(平成5年卒)
デンタルへ出場。Bリーグへ降格。
1992 キャプテン=畑崎清孝先生(平成6年卒)
Bリーグ優勝。
1993 キャプテン=西田哲也先生(平成8年卒)
Aリーグ全敗。
1994 キャプテン=松本祥忠先生(平成9年卒)
Aリーグ昇格ならず。
1995 キャプテン=秋吉美智彦先生(平成9年卒)
Aリーグ昇格ならず。
1996 キャプテン=林靖一郎先生(平成9年卒)
Aリーグ昇格ならず。(Bリーグ2位)
1997 キャプテン=木谷憲典先生(平成10年卒)
医学部に創部以来初勝利。Bリーグ2位。
1998 キャプテン=山下剛史先生(平成12年卒)
Bリーグ優勝するも県全体のラグビーチーム数減少によるリーグ再編成のあおりを受けて昇格できず。
杉中教授名誉顧問に就任。
1999 キャプテン=児玉昌樹(平成7年入学)
医学部と合併。登録名を霞ラガーズとしBリーグへ出場。結果は4勝1敗で2位。
菅井教授(当時助教授)が顧問に就任。
2000 キャプテン=屋島浩記(平成8年入学)
島根医科大学と交流戦を行う。Bリーグ4勝1敗で2位。
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新入生の方へ! |
霞ラガーズ |
部歌 |
